「このままでいいのかな」と感じたときに
50代を過ぎたあたりから、ふと心に浮かぶことがあります。
「このままでいいのかな?」「私の人生、これでよかったのかな?」
何か大きな事件があったわけじゃない。
でも、心のどこかにポツンと穴があいているような、そんな感覚。
あるいは──
思ってもいなかった出来事に巻き込まれて、人生が大きく揺さぶられることもあります。
「こんなことが起こるなんて…」と、まるで足元が崩れ落ちるような感覚。
言葉にならないほどの、喪失や絶望を感じることもあるかもしれません。
でも、そんな“揺らぎ”や“迷い”が訪れること自体、
実はあなたの中で、何かが変わろうとしているサインなんです。
“幸せ”って、本当はどんなこと?
「幸せに生きたい」
誰もが願うことなのに、どうしてこんなに難しく感じてしまうのでしょう。
周りを見れば、「ちゃんとしている人」「成功している人」がいて、
過去に同じような悩みを持っていたにも関わらず、うまくいく人もいる。
あの人と、同じようにやった“つもり”なのに、思うような結果が出ず、情けない気持ちになる自分もいる。
でも、それってあたりまえなんです。
人はそれぞれ、育ってきた背景も、タイミングも、心の動きも違うから。
同じ方法を試しても、同じ結果になるとは限らない。
それは、あなたが劣っているからではなく、違っているだけだから。
本当に大切なのは、
「他人のように生きること」「同じような成功をえること」ではなく、
「わたしにとっての幸せは何か?」を問い直すこと。
それは、大きな成功や完璧な日々じゃなくて、
「今日、少し心がほっとした」とか「ひとつ、自分を責めずにいられた」そんな小さな変化かもしれません。
私たちはなぜか、言葉で「いつ死ぬかわからない」と言いつつも、心の奥底で、人生は永遠に続くように感じています。
だけど、命には否応なく必ず終わりが来ます。
「明日死ぬかもしれない」とはよく言われるけれど、実際は──
1秒先に命を失うかもしれない私たちにとって、
“今を幸せに生きているかどうか”こそが、ほんとうの問いなのだと思うのです。
自己受容とは、“できない自分”も含めて認めること
自己受容って、なんだか難しそうに聞こえるかもしれません。
でも、実はとてもシンプルなこと。
それは──
「うまくできない私」も、「弱い私」も、「不器用な私」も、ぜんぶ含めて“わたし”だと認めること。
社会では「変わらなきゃ」「もっと努力しなきゃ」と言われがちですが、
変われない日があってもいい。
動けない時があってもいい。
誰かを羨んでしまうことがあっても、いいんです。
そんな自分を否定するのではなく、
「今のわたしは、そうなんだな」と、そのまま受け止めてあげる。
それが、自己受容のはじまりです。
「多数派の正しさ」から外れるのが、どうしてこんなに怖いのか?
本当は自分らしく生きたい。
でも、世間の「こうあるべき」から外れるのって、怖いですよね。
「みんながそうしているから」
「親に言われたから」
「非常識と思われたらどうしよう」
そんな思いが、いつの間にか“正しさの鎖”となって、私たちを縛りつけてしまう。
でも、忘れないでください。
本当に苦しいのは、「間違えること」ではなく、
“自分を置き去りにして選び続けること”なんです。
「わたしの大切にしたい在り方」は、他人の正解とは違っていい。
たとえその選択が不器用でも、誰にも理解されなくても、
あなたの心が「これでいい」と感じられるなら、それが“あなただけの正解”です。
迷っている今も、何かを失ったように感じる今も、
それは“わたし”の在り方に気づく準備の途中。
自己受容が、なぜ幸せな人生に繋がるのか
自己否定のクセが人生を苦しくしていた
わたしたちは、思っている以上に自分に厳しいものです。
「どうしてあのとき、あんなこと言っちゃったんだろう」
「もっとちゃんとできたはずなのに」
「私なんて、やっぱりダメだ」
気がつくと、そんなふうに自分を責める言葉が、心の中にいつの間にか染みついている。
まるでそれが当たり前のように、毎日自分に向かってダメ出しをしている。
そして、それを「反省」や「向上心」だと思い込んでいたりもします。
でも──
その“自分責め”は、本当にわたしを幸せにしてくれているのでしょうか?
よくよく振り返ってみると、
それは「自分を変えたくて」とか「幸せになりたくて」と願ってきた結果なのかもしれません。
小さな頃、わたしたちは大人たちに言われた言葉に強く影響を受けました。
「ちゃんとしなさい」「いい子にしなさい」「頑張れば認められる」
その教えは、あの時のわたしにとっては必要な“幸せを生きるための知恵”だったのです。
そして大人になった今でも、その教えを無意識のうちに守り続けてきた。
でも、もう環境も状況も変わった今、
その“昔の正しさ”が、わたしを苦しめる「クセ」になってしまっていることもあります。
今まで頑張ってきた「自己否定のクセ」は、
本来は幸せに近づくための“味方”だった。
でももう、手放してもいいのかもしれません。
「ありがとう、今まで守ってくれてたんだね」
そんなふうに、自分に寄り添う視点で、
そのクセを静かに卒業していくことが、自己受容の第一歩です。
幸せな人は、自分を味方にしている
世の中には、肩の力を抜いて、心地よく生きているように見える人がいます。
決して完璧ではないし、何でもうまくいっているわけじゃない。
それでも、どこか満たされていて、自然体で、自分らしくいられる。
そういう人たちに共通していることがあります。
それは──
「自分を敵にしていない」ということ。
他人から認められるより先に、自分が自分を認めている。
「こういう私もいるよね」って、どんな状態の自分にも「OK」を出せている。
それが、じんわりとした安心感となって、日々を支えているのです。
わたしたちは、つい「何かを手に入れたら幸せになれる」と思ってしまいます。
でも本当の幸せは、「今の私でも、大丈夫」と思える感覚の中にあるのかもしれません。
自分との関係がすべての土台になる
人間関係がうまくいかない
パートナーシップに悩んでいる
仕事がしんどい、人と関わるのがつらい
何を選んでも、自信が持てない
そんなとき、わたしたちは「環境を変えればうまくいくかも」と思いがちです。
もちろん、環境を変えることが必要な場面もあります。
でも、本当に変わるべきなのは──
“自分との関係性”かもしれません。
自分との関係が整っていないと、
他人にどう思われるかに敏感になりすぎたり、
人の顔色をうかがいすぎて、自分を見失ってしまったり。
逆に、自分との関係が穏やかで、
自分の在り方に納得ができていれば、
人との関わりも、人生の選択も、ずっと軽やかになります。
つまり、自分との関係が、人生すべての“土台”になる。
からこそ、まずは自分自身と向き合っていくことが、幸せな人生の第一歩になるのです。
うれしいです、ありがとう😊
では、流れをそのままつなげて──
幸せに生きるための「自己受容 7つのステップ」
ステップ1:過去の自分を否定しない
「あのとき、こうしていれば…」
「もっと早く気づいていれば…」
そんなふうに、過去の自分を責めていることに気づいたら・・・
でも、あの日、あの瞬間のわたしは、「その選択が最善だ」と信じていたから、
もしくは「それを選ぶ理由が何かしらあった」から、それを選んだと気づいてください。
それが例えネガティブな理由であろうと、自分にはそれを選ぶ何かしらの理由があったはずです。
今この瞬間から振り返れば、“間違いだった”と感じる選択かもしれません。
ですが、別の選択をしたからと言って、その先の未来がどう転じていたかなんてわかりません。
もっと最善の今を迎えていたかもしれませんが、もっと最悪の今を迎えている可能性だってあるわけです。
それは誰にもわかりません。
ですから、過去の自分を責めていたり、悔やむ自分に気づいたら
「そう思うんだね」と、静かにそのままを受け止めてください。
否定も肯定もりません。
どんな過去も、今のわたしをつくってくれた一部。
だからこそ、ただ受け取って、手放していくことが大切です。
ステップ2:感情を抑えこまず、感じる
わたしたちは、「大人だから」「迷惑をかけたくないから」と、気づけば感情を押し殺してしまうことが多くなっています。
でも、どんな感情にも存在する理由があります。
泣きたいときには泣いていい。
怒りが湧いたときには、その感情をちゃんと感じていい。
「そんなことで?」と自分に言い聞かせるのではなく、ただ感じる。
言葉で「ああ、わたし今、悲しいんだな」「すごく怒ってるな」って、意味を付ける必要もありません。
意図的な擬人化もしない方が良い。
ただ、そのままを感じてください。
胸がキューッとなっているなら、そのままを感じる。
涙がハラハラと出てくるなら、そのままを感じる。
ただ、それだけです。
その感情に合わせるように、勝手に思考が溢れてくると思います。
それらの思考はただ、湧き出たことに気づくだけでよい。
それを深く考える必要もないし、分析することも判断することも、この段階では不要です。
ただただ感情を感じきるだけでよい。
すると、勝手に感情は落ち着いていきます。
感情をただ感じること。
ステップ3:完璧じゃない自分にOKを出す
わたしたちはつい、「ちゃんとできる私」でいようとしてしまいます。
失敗しないように、迷惑をかけないように、理想の自分であろうと頑張る。
でも現実は──
失敗することもあるし、思うようにいかないこともある。
完璧に生きられない自分に落ち込む日だってある。
だけど、それでいいんです。
人生に“善い悪い”なんて、本当はないのだから。
「うまくできない私」も、「今日ダラダラしていた私」も、「他人にイラッとした私」も、
みんな“わたし”という存在の一部。
どんな私も、ただここに在るだけ。
ステップ4:比べるクセに気づき、手放す
他人と比べるつもりなんてなかったのに、気づけばいつも誰かと自分を比べてしまっている。
そんな自分に、また嫌気がさしてしまうこともあります。
でも、比べてしまうこと自体は悪いことではありません。
そうやって「わたしはどう在りたいのか?」を知るきっかけにもなるからです。
ただ、その比較が「自分を否定するため」に使われはじめたとき、それは心を苦しくする“クセ”に変わります。
「昨日の自分と比べる」とよく言われますが、昨日よりも落ち込んでいる日だってあるし、体も心も重くて、何もしたくない日だってある。
そんなときに、「昨日よりダメ」と決めつけてしまうと、また自分を責めるループに戻ってしまいます。
大事なのは、比べていることに気づくこと。
そして「比べてるなぁ」「またやってるなぁ」と、少し引いた視点でそのクセを眺めてあげること。
そのクセを責めずに、ただ気づき続けていれば、やがて比べること自体が、少しずつ静かになっていきます。
ステップ5:“正しさ”ではなく「在り方」に戻る
私たちは長いあいだ、「正しい選択をしなければいけない」と思い込んできました。
「間違えたらダメ」
「損をしたくない」
「誰かに迷惑をかけたくない」
でも、何が正しいかなんて、
そのときの状況や、誰の視点で見るかによって変わるものです。
大切なのは、“正しさ”ではなく、「自分の在り方に合っているかどうか」。
たとえそれが他の人から見れば遠回りに思えても、自分にとって誠実で、やさしく、しっくりくる選択なら、それでいい。
「わたしは、どう在りたいか?」
その問いに、正解も不正解もありません。
ただ、自分の中に浮かんでくる小さな「在り方」に気づいていくだけでいいのです。
ステップ6:心の声を聴いて、応える
長いあいだ、気づかぬうちに心の声を無視していました。
忙しさや常識、傷ついたわたしにばかりに意識が向いて、いつの間にか、自分の本音がわからなくなっていました。
でも、心の声は、ずっとそこに在り続けてくれていました。
「なんか違う」
「ほんとはやりたくない」
「でも、こうしてみたい」
それは、言葉にしなくても、ふとした身体の反応や、胸の奥のモヤモヤ、ささいな違和感として現れることもあったのに。
今にして思うと、大切なのは、その声をキャッチしてあげること。
無視せず、否定せず、ただ「気づいて」あげる。
そして、ほんの少しでいいから、その声に応えてみる。
休みたいなら休む。
やりたくないなら断ってみる。
わからないなら、わからないままでいる。
それだけで、心の奥に閉じ込めていた“わたし”が、少しずつ解放されてくのだと今感じています。
ステップ7:“わたしらしさ”に従って選択する
わたしらしく生きる──
それは、いつも簡単なことではありません。
ときには、誰かに反対されたり、
理解されなかったり、
孤独を感じることもあるかもしれません。
でも、“わたしらしさ”に従って生きるということは、
「こう在りたい」という自分の内側の声に、誠実でいること。
何を選ぶかではなく、どんな在り方で選ぶか。
迷いながらでもいい。
ゆっくりでもいい。
いつだって、選び直していい。
「こう在りたい」と願う、その気持ちにそっと手を伸ばしていくことが、
あなた自身の人生を、自分の手に取り戻していく道になります。
自己受容が育つと、人生が変わってくる
他人の評価が怖くなくなる
これまでは、無意識のうちに「どう見られているか」を気にしていたかもしれません。
「変に思われたらどうしよう」
「ちゃんとしないと、がっかりされるかも」
そう思うあまり、自分の気持ちよりも、相手の顔色や反応を優先してしまうこともあったと思います。
でも、自己受容が少しずつ育ってくると、
他人の評価が「どうでもいい」になるのではなく、「絶対ではない」ものに変わっていきます。
誰かに否定されたとしても、すぐに自分を責めることがなくなり、「わたしは、わたしの在り方に誠実だった」と感じられるようになっていきます。
それは、しなやかな生き方になるとか、ストレス耐性がつくというのではなく、
“自分との信頼関係が強くなる”ということかもしれません。
自分の人生に、ちゃんと責任を持てるようになる
誰かのせいにしたくなることもある。
環境や過去や運命のせいにしたくなることもある。
それも人間らしい反応です。
だけど、自己受容が育ってくると、自分の選択や行動に対して、少しずつ「納得」が持てるようになってきます。
思うようにいかないことがあっても、出来事と自分の価値がイコールではないとわかるようになってきます。
それは自分の選択だけで、この世が成り立っていないことにも気づいていけるからです。
あの日あの時、あれがあったからこれを選んだ。
というように自分だけの選択ではなく、すべてが関連づいて起こっていることに気づけるから。
だから、“完璧な選択をする”ことではなく、“自分の在り方に沿った選択をする”ことで、自分が受け持つ責任の範囲もわかり、出来事と自分の価値を紐づけることなく、自分を生きることができるようになります。
その積み重ねで、自分の人生が、
ゆっくりと“自分のもの”になっていきます。
「みんなと同じ」を手放すのは怖い。でも、自由はその先にある
安心感を求めて、「みんなと同じでいよう」「正しい選択をしよう」とするのは自然なこと。
はみ出したくない。目立ちたくない。浮きたくない。責められたくない。
そんな気持ちが、知らず知らずのうちに自分の行動を決めていることがあります。
でも、「みんなと同じ」が心地悪く感じ始めたなら、
それは“わたし”が変わり始めているサインかもと、一度立ち止まってください。
自分だけの選択は、不安がつきものです。
先が見えないから怖いし、誰にも理解されないと寂しさもある。
もね、この人生は、あなたのもの。
誰のものでもなく、あなたが歩んでいくものです。
「誰かに決められた人生」ではなく、“自分で選んだ人生”がそこには生まれます。
それは、とても静かで、でも確かな自由。
「正しさ」より「心地よさ」で選べるようになる
かつてのわたしは、「何が正しいか」にこだわっていたかもしれません。
間違えたくなかったし、損したくなかった。
何より、「後悔したくなかった」。
でも、「正しさ」を優先すると、本当は望んでいない道を選んでしまうこともあります。
自己受容が深まるにつれて、正しさよりも、「心地よさ」「しっくり感」「静かな納得」が大事になっていきます。
選んだことが、たとえ他人から「非常識」だと言われても、自分の心が「これでいい」と感じるなら、それがわたしにとっての“正解”。
誰かのモノサシじゃなく、わたしの大切にしたい在り方で、わたしの人生を選べるようになっていきます。
“自分で選ぶ人生”は、不安もあるけど誇らしい
「自由に選べる」って、実はとても怖いこと。
誰のせいにもできないし、結果がどうなるかもわからない。
だからこそ、自分で選ぶ人生には、責任と覚悟がついてくる。
でもそれと同時に、静かな誇りも生まれます。
「うまくいったから誇らしい」のではなく、
「怖さを感じながらも、自分の在りたい在り方に誠実であろうとしたこと」に、自分の中にある“信頼”のようなものが芽生えてくるようです。
それが、ほんとうの意味での「わたしの人生」なのかもしれません。
まとめ
“幸せな人生”は、他人に決められない
「幸せそうに見える」
「理想の生き方に見える」
そんな外側の評価や見え方に、ずっと振り回されてきたのかもしれません。
でも、本当の幸せって、他人に証明してもらうものじゃないし、
誰かに「それでいいよ」と言ってもらわなきゃ成り立たないものでもない。
“わたしの幸せ”は、“わたしの中にある静かな実感”だけが知っている。
それを他人と比べることなく、自分の中で「これでいい」と思える感覚こそが、わたしにとっての幸せのかたちなのだと思います。
自己受容は、わたしを生きるための土台
自分に優しくすることが難しい日もある。
また責めそうになることもある。
変わろうとしても、うまくいかないこともある。
でも、それでもいいんです。
そのすべてのプロセスが、「わたしを生きる」ってことなのだから。
自己受容は、目的でもゴールでもなく、
これから先の人生を、自分の在り方に従って歩いていくための“土台”になるもの。
何かが“できたから”自分を認めるのではなく、“今のままの自分”をただ受けとめることから、静かに人生は動き始めていきます。
正しさに従うのではなく、“どう在りたいか”を問い直す
わたしは、長いあいだ「正しくあろう」としてきました。
でも、「正しさ」の中にいるほど、本当の自分が見えなくなってしまうとも感じています。
これからは、“何が正しいか”ではなく、「どう在りたいか?」を問いながら生きていく。
その問いを持ち続けることで、選択の軸が“他人”から“わたし”に戻っていきます。
そして、自分で選んだその道を、しなやかに歩んでいけるようになります。
迷っても、立ち止まっても、自分を抱きしめて進んでいこう
どんなに丁寧に選んだとしても、迷いも、揺れも、不安も、きっとなくなりません。
でも、そんな日々の中でも、わたしはわたしの味方でいることはできる。
立ち止まる日があっても、後戻りする日があってもいい。
それすらも、「わたしがわたしを大切にしている証」かもしれないから。
自分の選択に、自分で責任を持てる人は、強くて優しい
誰かに認められるためでも、
失敗しないためでもなく、
「わたしの在り方に沿って生きたい」と願うこと。
そこには、不安もあるけれど、自分を深く信じられる強さと、他人の痛みにも優しくなれるしなやかさが、育っていきます。
わたしは今、完璧ではないけれど、それでも、自分にとって大切な在り方で、人生を選んでいる。
そう思えるようになったとき、それは、もうすでに“幸せな人生”の中にいるということなのかもしれません。